レイテ島に父の面影を尋ねて

加藤 寛(かとう ひろし)

 

 戦争が終わって公報がきても、母はレイテの密林の中に父はきっと生きていると堅く信じ込んでいました。戦後何年かたった秋の宵、一匹のアゲハ蝶が我が家の裸電球に飛んできて、追っても追っても出ていこうとしないことがありました。それを見て母が「これはきっと父がうちではどんな暮らしをしているのか心配して、レイテより蝶の羽根を借りて見にきたにちがいない」と言って私たち兄弟を諭した事は今も耳の底に残っています。それは父親がいなくてもしっかり生きなさいと教えたのだと思っています。また折りにふれ、比島派遣泉第5316部隊はどうかなぁと心配そうに独り言をいっていました。その母も平成4年まで頑張ってくれましたが、90才の年には勝てず亡くなってしまいました。

 私も退職して10年、気持ちも落着いたので、母が最後まで気に掛けていた島をこの目で確かめようと思い慰霊巡回団に参加する事にしました。私はそのために50年前の噂やかすかな記憶を呼びおこし、書物をみくらべて愕然としました。それは比島派遣軍63万人のうち3~4ヶ月の間に47万人の将兵が戦死してしまったということでした。私はその島がどんな島なのか、この目で見定めたいと思って参加しました。


 

 出発前日は、バスに乗り遅れてはいけないとか、旅券を忘れてはいけないと思い、心配しました。浜松からの出発は2000年2月4日午前1時20分でした。また真冬に出て真夏の島につく事で半袖の上にジャンパーをはおって出発しました。緊張したせいかあまり寒くありませんでした。

 朝10時に機上の人となりました。そして定刻を少し遅れてマニラ空港に着き、入国事務をすませて建物の外に出ると、日本では真冬というのに草木は青々として土は湿り、ちょっと蒸し暑い感じでした。ちょうど日本の7月の上旬に梅雨があがった頃だなぁと思いました。それからレイテ行きの飛行機を待ちましたが、待てど暮らせど来ません(レイテ島はマニラより約270㎞ほど離れた南北80㎞東西20㎞ほどの島です)。現地の乗客は誰一人さわぐ人はありませんでした。3~4時間遅れ、日が沈むころになって乗れました。タクロバン空港に着いたのは夜でした。その日は華僑の人達は春節という祭で各戸に火をたいて新年を祝う日でした。

 ホテルは風呂桶がなく、シャワーの湯をバケツにためて体を拭くのですが、みんな一度にシャワーを使うので水はチョロチョロとしか出ません。家具なども必要最低限の粗末なもので、私たちが話をしていると窓ガラスの外を大きなイエネズミがすうっと通っていく、それ位のホテルです。名はタクロバン・プラザです。しかし55年前に父親達がここで戦死した土地だと思うと、何も不足はありませんでした。


 

 朝食はレイテの習慣だと思いますが、粗末で堅く小さいトースト2きれと目玉焼きの卵2個と焼きソバ少々とコーヒーだけでした。さあ出発です。昨日迎えにきたのと同じ、走ればガタガタギーギー悲鳴を上げるような20人乗りのバスに10人ばかり乗って、慰霊の旅にでました。

レイテ島の平地の風景
■レイテ島の平地の風景。やせた火山灰土でなにも育たないところ。
 遠方の山は日本軍最後の砦となったカンギポット山。

 

 あたりの景色を眺めていると、誰かが「カラスもスズメも一羽もいないな」と言いました。本当に火山灰土の痩せた土地で、低地は沼、また広い所は米作りで条植え、あとは雑草が繁茂、といっても丈は低く、所々ヤシが生えて川は火山灰土のため常に濁っている。これでは食べるようなものは全くなく、草の生えた砂漠です。遠方には日本軍の最後の砦となったカンギポット山が望めます。そうこうしているうちにオルモック市につきました。

マッカーサーが副官と共にレイテに上陸してくるモニュメント
■マッカーサーが副官と共にレイテに上陸してくるモニュメント。

 

 ここはマッカーサーの再上陸の地点で、数名の副官を従えて波打ち際を歩いて来る姿のブロンズ象が立てられていました。マゼランもこの地に上陸しているという事で、海岸が何か上陸に適しているのかは不明ですが、浜は他のモニュメントなどもあるきれいな公園になっていました。

 市役所には、マゼランとマッカーサーのレリーフが名誉市民のように飾ってありました。次に30分程度バスで走行してアルブエラという町につきました。ここは父が戦死した地です。海岸のヤシの木の根本に、日・比の国旗を巻き、供え物、卒塔婆、好物、写真、心経、花を捧げて慰霊祭を終えました。父がこの地で死んだのかと思うと感無量でした。

 バスに引揚げたら、ガイドが「あれを見てきなさい」と強い口調で指さしました。役場の正面に2基の野砲があり、何か異様なものを感じました。なんと無惨にも日本軍の野砲の薬室が爆破され、裂けてそり返っているではありませんか。

日本軍がなんらかの理由で薬室を爆破した大砲の残骸
■日本軍がなんらかの理由で薬室を爆破した日本製の大砲。

 

 軍人が自ら運んできた大切な武器を自らの手で壊すなんてめったにないことです。これは敵の攻撃が激しくて隠すひまもなかったか、運ぶ事も出来なかったのではなかったか。又砲弾が無くなったのかとバスの中で考え続けましたが、爆破した将兵の気持ちを察するとあまりにも気の毒で胸が詰まる思いでした。

 「これが俺が探し求めたレイテ戦の象徴ではなかろうか」と自分なりに納得しました。父がここで戦死した事はただただご苦労様のひと言に尽きると思いました。私はこの地で海岸の石数個を拾って兄弟でわけました。その石は角閃流紋岩で火山の深いところの石です。妻や子へのお土産にするつもりで拾って来ました。

 米軍は上陸地点を定めると海と空から徹底的に陣地を攻撃し、日本軍の全滅を見とどけてから舟艇で上陸するのが常道だったそうです。日本軍は敵の砲火で散々やられ、覇権を失った負け戦です。背後はほとんど火山灰地(山の中は堅い石の山脈)で大きな木もなく草地で所々ヤシがあるだけ、55年前もさほど変わりようはないと想像しました。塹壕を掘っても簡単に掘れるが爆弾には弱く、次第次第に山地へ追いつめられていくしかありませんでした。

 現地の通訳案内の中村さんという方が、レイテ戦のよい手記があるという事でバスの中で皆で聴かせていただきました。それはレイテの生き残りの衛生兵が、軍医殿の奥様の所にその最後を知らせにきて、当時の戦況を追悼文にしたもののカセット録音でした。

 日本軍はその頃、ただ敗走するだけの戦いでした。頼みの食糧もなく武器弾薬にも事欠くありさまでした。そして時期は雨期、塹壕にも水がたまり、服を乾かす間もなく、病気が出ても薬はありません。まわりは敵に囲まれ敗走するしか道はありません。レイテ北部の標高約360mの独立峰、カンギポット山を目ざし自然と集結せざるをえなくなりました。師団長は「戦闘ハ適宜判断シテ続行セヨ」との事。痩地で食う物もなく、歩けない者は友の肩を借り、それもできない者は自決する。自決できない者は戦友の力を借りて自決させてもらうなど、口では語れないありさまだったとの事です。そして最後にその衛生兵は「軍医殿が亡くなる時に口にふくませた銀のさじです」と言って持ってきたスプーンを奥様に贈りました。

 私はこのテープを聴いて、55年前の生き地獄を想像して涙を流しました。これこそ大量の死者を出した戦争の実態だろうと震える気持ちで聞きました。

 この戦闘の途中、山下奉文は何回も大本営に無理だからと申し出たが、大本営は聞く耳をもたなかったという事でした。カンギポット山の中腹にささやかなコンクリート製の慰霊碑があり、ここがレイテで最後に残った日本の将兵が集結した地とのことでした。そこは少し展望が開け、海の望める所です。ここで将兵達は生まれた故郷を偲び、親や妻子に別れを告げて露と消えたのかと思うと、あの若さで気の毒なことをしたなぁと思わずにはいられませんでした。ここまでこないうちに何か他に助かる手だては無かっただろうか、と思うのは私ばかりではないと思います。

 慰霊碑に隣接した2~3軒のニッパハウスの家の方々が毎日きれいに管理してくれているのには、頭が下がる思いがしました。若干のプレゼントを現地の皆さんにあげて帰路につきました。その途中には山下奉文率いる師団の慰霊碑がありましたが、銅板は盗られ、軍資金が埋めてあると思ったか何者かに掘り返されたところも見受けられました。


 

 翌日には、カリラヤというきれいな湖を見下ろせるマニラ市郊外の山の頂きにある比島派遣軍合同慰霊碑を訪れました。日本の厚生省が作った慰霊碑で、芝が敷きつめられ、碑の中央には白木の骨箱が祀られています。フィリッピンの兵士が銃を持って警戒にあたっているのには感心しました。この日は突然晴天になって熱帯の日が射し込みました。その日差しは烈しく、普通のハチとクマンバチほどのちがいです。例により例にならって祭事を行いました。帰りのマニラ復路では渋滞がありました。フィリッピンには鉄道というものはありません。やはり島国です。

日本の厚生省が作った比島派遣軍の慰霊碑
■日本の厚生省が作った比島派遣軍の慰霊碑。
 中央にあるのは白木の骨箱。その下に塔婆。手前は供物。

 

 宿はホリデーインマニラの15階に旅装を解きました。このホテルではNHKの放送が直に視られ、国際電話もかけられます。ここから見える市街地は静かな緑の広場と役所の屋根が見え隠れしており、工場や煙突は見えません。建設途中のビルもたくさんあります。眼下に市民が忙しく働いており、さすがは若々しい国、日本と真反対です。

 帰国の日にはマニラ市の歴史的な建築物を案内していただきました。独立の父ラサール公園はマニラ市民の憩いの広場です。スペイン人が築いた赤練瓦作りのサンチャゴ要塞の中には牢獄や捕虜収容所などがあり、暗い中にマレー人の抑圧された気の毒な一面を垣間見た感じがしました。中庭は熱帯独持のハイビスカスや色とりどりのブーゲンビリヤなどが咲き誇り、見事な楽園です。丸屋根と妖しく光るステンドグラスのカトリック教会にも入り、静かに祈りを捧げる市民の姿に感心しました。また最後にはマラカニヤン宮殿の執務室等を見せていただき、歴代の大統領がこれからは日本と手を結んで発展したいと考えている事がわかりました。戦犯の恩赦、戦没者墓地の貸与と管理、日比貿易の拡大など、そのあかしは数えればきりがありません。

 フィリッピンには日本の工業製品が溢れています。故障が無いといって喜んで使ってくれます。乗用車・バス・時計・カメラ・オートバイ・精密機械などです。日本は不死鳥の如くよみがえりました。共にこの富を分けあおうではありませんか。


 

1.6日間15万円の旅でしたが私には納得がいく旅でした。

2.父の戦死の地をひとめ見たことは無駄ではなかったナァと思いました。

3.帰って妻や子にどうだったと言われた時、語る勇気はありませんでしたが、
  このような文にしてしっかり読んでもらいました。

4.異文化の地域の生活や人間の本性がくっきりと浮かび上がってみえました。

5.亡き母が当時の様子を知らずに長寿を全うした事がせめてもの幸いでした。


 

加藤 厚 作成:2000/12/18 改訂:2023/08/15